忘れるということを理解する
83歳で認知症の診断を受けて、87歳で要支援2の認定が出るまで、ヤエさんの記憶が弱くなっていく症状について、家族はなかなか理解することができなかった。
仕事で認知症者にかかわる場合には、客観的に症状を受け入れられる。
しかし家族はこれまで、記憶があった本人と暮らしてきているから、記憶の退行を受け入れられないのだ。
障害児教育や臨床発達心理を仕事にしている私でも、自分の価値観でヤエさんの行動を捉えていた。
ほうれん草事件
85~86歳、まだ一人で歩けたヤエさんは、数か月にわたって、1日に3回ほうれん草を買ってきた。
買うだけで、ほうれん草をゆでる行動は、起きにくくなっていた。
ほうれん草をキッチンの上に置いておくと目につくはずだが、冷蔵庫にしまって見えないから忘れ、買ってこなくちゃという記憶で再び買ってくる。
買ってきて冷蔵庫を開け、2つ目だとわかると「しまった」と思うのか、ヤエさんは2つ目3つ目を他所へ隠した。
いろんな場所から、トロトロになったほうれん草が出てくる。
ほうれん草を何度も買ってくることは、運動してきてくれた!と思えばよかった。
そうできず、ヤエさんを責める気持ちが、私にあった。
認知症者に記憶がないことを責める家族の言葉、これが認知症者の脳にとても悪い。
今から介護に出遇う皆さんには、そのように理解しておいてもらいたい。
「散歩してこれたね。ほうれん草ありがとうね。茹でて冷凍しておくね。一緒に食べようね。」
そう言えたらよかった。
お釣りがない事件
購入したストーブの代金の支払いを、留守番中のヤエさんに頼んで私は出かけた。
集金に来た人から、ヤエさんはお釣りをもらって仏壇に置いて、仏壇を離れるとお釣りの場所を忘れた。
私がお釣りの場所を聞くと、「もらってない」と真顔で言った。
私は鵜呑みにして、相手の方に連絡すると、相手の方はお釣りを渡したと言った。
家中探して、仏壇にあった。
代金を支払うことはできたのだ。
お釣りが要らないように、私がピッタリの代金を預けるべきだった。
相手の方には謝って、ヤエさんに記憶がないことに、私はショックを受けた。
「どこに置いたか忘れちゃった」ではなく、真剣に「本当にもらってない。その人は置いていかなかった」と言うヤエさんだった。
ご飯を食べていないと言い張る、食べたこと自体を忘れる認知症の症状と同じだった。
83歳から87歳まで、留守番させていた4年間はそういうことの繰り返しだった。
昼間、今のヤエさんに合う活動や時間が、必要だった。
87歳で、要支援2の認定が出た。
30点満点のMMSE検査でも、18点しか取れないヤエさんだった。(一般的には27点以上)
ヤエさんに直近の記憶がないことを、私も理解した。
89歳、要介護1の認定が出て、ヤエさんは初めてデイサービスに行くようになった。(MMSE検査16点)
鍵がない事件
16時に、デイサービスのマイクロバスで送ってもらい、玄関前で丁寧なお辞儀をして、ヤエさんは自分で鍵を開けて家に入る。
ある時デイサービスの方から、私の携帯に電話が来た。
ヤエさんを玄関でおろし、他の方を送って戻ってきたマイクロバスから、家に入れないヤエさんが見えたそうだ。
「マイクロバスを降りたヤエさんが、お家の付近をうろうろして中に入れないので、お隣さんにヤエさんを預かってもらいました。」と言う電話だった。
出かける時はヤエさんの鍵で玄関を閉めたので、鍵を持たせたはずなのに、どうしたんだろうと驚いた。
急いで仕事を切り上げて、慌ててお隣さんへ駆けつけ、ヤエさんのズボンのポケットを探ると、ズボンのポケットに鍵があった。
1時間、話し相手をしてくれたお隣のご主人が、「ヤエさんを叱らないでね」と言ってくれた。
お隣さんは、いつも親切に、見守ってくれ、協力してくれた。
たぶん、ヤエさんはマイクロバスから降りないうちに、車の中でリュックサックの中から準備よく鍵を取り出して、手に持ってしまい、バスを降りる際には鍵をズボンのポケットに入れ、鍵行動はそこで途切れて、忘れてしまったんだと後で思った。
そこで、リュックサックに、40cm のひもをつけて、鍵とリュックサックが離れないようにした。
マイクロバスから降りて玄関へ入る時、リュックサックの紐をたどって鍵を取り出し、鍵を開けるといい。
鍵は小さいのでどこへでも入ってしまうから、リュックサックと鍵を結びつけておくのが一番なくならないと思った。
ヤエさんに記憶がないことを責めるのでなく、物理的な工夫をすること、この事件が私の介護の工夫の原点になったと思う。
年賀状を出さなくちゃ事件
要介護1、89歳のお正月、届いた年賀状を見て、ヤエさんは毎日何度も「年賀状を出さなくちゃ」と言うようになった。
「年末に出しましたよ。出したのでお返事が来たんです」と言ってもヤエさんに通じなくなっていた。
元旦に着くように、お互いに年末に年賀状を投函し、元旦から三日にかけて、お返事をもらうという仕組みが、ヤエさんにはもうわからなかった。
お正月の一週間くらい、年賀状が届く度に毎日、何回もヤエさんに説明することに懲りて、90歳の年末は、ヤエさんが年賀状を投函するシーンを、ガラケーで写真に撮った。
日付も入れて写真にして、元旦からその写真を見せた。
「年賀状を出さなくちゃ」ということもあったが、写真を見せて「一緒に出しましたよ」と言うと「あー、よかったあ」と、とても安心した笑顔になった。
それは、介護3の93歳のお正月まで続いた。
介護4,94歳からは、年賀状を見ても関心を示さなくなった。(30点満点のMMSE検査は11点)
私が「ヤエさんの名前で出してありますよ」と、年賀状の文面を見せると、笑顔になった。
ほうれん草を買い続けてきた時期は、家族に「ほうれん草を茹でて食べさせたい」ということがヤエさんの頭にずっとあった。
年賀状の返事を出すと言い続けていた時期も、、年賀状でご挨拶したいという気持ちがヤエさんにずっとあった。
次第にそれらを放念して、ヤエさんの考えることが少なくなっていった。
一人では歩けなくなって、外出できなくなったヤエさん、考えることが少なくなって、黙ってしまったヤエさんを見ると、毎日ほうれん草を買ってきてくれた頃や、年賀状の返事を出したいと言い続けた頃が、懐かしい。
93歳まで、写真は、とても有効だった。
似ているものの混同事件
コードレス電話機と、テレビのリモコンが、同じテーブルにあった期間があった。
電話が鳴った時、ヤエさんがテレビのリモコンを取って耳に当てた。
笑えた。
確かに、2つの形状と、使われる数字ボタンが似ている。
ヤエさんに、電話とテレビのリモコンの意味を、分ける力がなくなった。
電灯のスイッチが、現在のように壁にあるのでなく、電灯からひもが直接ぶら下がっていた、昭和の時代のように、黒電話と、チャンネルテレビのままだったら、機械とその意味が直結していて、ヤエさんにはよかったのかもしれない。
似たものの混乱は、起きる。
電話機を、違う場所へ移動した。
しばらくして、ヤエさんはテレビのリモコンも、操作できなくなった。
消えない写真や文字がある程度有効
94歳ぐらいまで、ある時は写真が有効だったり、ある時は文字が有効だったりした。
しかし95歳以降は、文字は読むのだが、文字の意味を取らないようになった。
例えば「電気をつける」と読むが、電気をつける行動は起きなくなった。
「薬を飲み込む」と読むが薬を飲めず、ぬるま湯だけ飲んだ。
それでも脱腸の手術や、脊柱管狭窄症MRI の検査の時など、事前説明や当日説明に、消えない文字はここぞという時に、役立った。
認知症診断の初めから、徘徊や暴言・暴力がなく、穏やかなヤエさんは、写真や文字を理解しようとしてくれる力があった。
明るく ひょうきんで、こだわらなくて にこやかな、そういうヤエさんだから私も、15年間お世話ができた。
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