「障害」についてどうとらえるか、保護者や同僚から聞かれることがあります。
梅津八三は、生きものすべてを、信号系活動および行動体制変換という軸で考え、障害という境界線を語りません。
行動の調整度に粗大と微細があり、それらを使い分けて暮らしているという点では、猫も私も、自閉症の方も認知症の方も、同じです。
誰でも、得意な領域と苦手な領域が、ありますね。
バリアフリー、インクルージョン、ユニバーサルデザイン、多様性という考えが、世の中に、広く浸透してきました。
教育界でも、環境の側の理解と努力である、特別支援教育、合理的配慮が、心掛けられています。
障害という「くくり」
障害とは、抱える困難に対して付けた
私は、障害や自閉症という言葉を、心理士の仕事で使います。
障害も自閉症も、子ども・大人、女性・男性のような、ある「くくり」の呼び名です。
私自身を自閉症スペクトラムのチェックリストでチェックすると、言語コミュニケーション、想像力、社会性は、それほどチェックが付きません。
「こだわり」は、非常にたくさんのチェックが付き、高得点になります。
私という人格を100%とすると、「こだわりを持っている」という点では、私の人格100%の中の20%くらいが自閉症の方に近い特性です。
個人内の、自閉症の特性パーセンテージが、多いか少ないかによって、自閉症とくくられたり、グレーゾーンとくくられたり、定型発達とくくられたりすると、私は考えています。
障害診断とは、適応調整の困難度をいうのだと思います。
家庭適応・学校適応・社会適応に、このくらい苦労するから、苦労と同じくらい助けてもらう権利があるということです。
発達障害と経済
3歳の時の診断が20歳でも同じ方もいるし、3歳の時の診断が軽減される20歳の方もいます。
反対に小学生くらいまでは分からず、中学生以降、あるいは大人になってから、発達障害の特性が分かる方もいます。
発達障害は先天的な障害ですが、発達性(小さい時ほど目立つ)の障害であり、20年~30年の社会適応で考えないと、診断は難しいです。
発達性の障害であると同時に、環境に左右される障害なので、後天的な生育環境に恵まれて、確定域で暮らしていければ、社会適応がやさしくなります。
大江健三郎のご子息の光さんは、自閉症・知的障害ですが、経済的な心配は何一つなく、音楽という確定域で、適応して暮らしています。
大江氏と光さん親子のように、経済的な心配がなくとも、障害の受容には、大きな障壁と長い時間があったそうです。
経済的な貧困は、発達障害のある保護者にも本人にも、大きなストレスになります。
経済的な貧困がなければ、我が子の障害の受容も、障害観も、ゆったりと鷹揚に構えられるに違いないです。
国会議員・地方議員の賞与を廃止したり、消費税から障害年金を出したりして、国民の障害年金を暮らしていける200万円にしてほしいと思います。
発達障害は遺伝の一部
親の形質は、子どもに遺伝します。
発達障害も、その遺伝の範囲内です。
保護者に発達障害があると、子どもに遺伝します。
子どもが親に似ていることは、全ての世代が繰り返してきた、当たり前の遺伝です。
遺伝の仕組みなので、悪いことではありません。
似ているから、可愛いのです。
形質の遺伝を排除しようとしたり、子どもの発達障害を受け入れないことは、差別になります。
その差別は、育児虐待を起こすこともあります。
テレビのニュースで流れる、いくつもの子ども虐待事件、児童相談所が抱える多くの虐待事案は、子どもだけでなく保護者にも発達障害や境界知能がある、支援が必要なケースが多いのです。
不器用でも、行動が遅くても、泣き虫でも、こだわりが激しくても、「私にもそういうところがあるからさぁ。似ちゃったんだよねぇ。」と、父母や祖父母が共感できることが、受容です。
保護者自身も、その上の保護者から、似た形質を受け継いでいるだけなのです。
誰も責めることはできないし、憎むこともできない、人類の遺伝の仕組みです。
お互いに認め合い、補い合いましょう。
発達障害がある保護者の子ども理解
保護者に発達障害があると、子ども理解が粗大になります。
子どもの気持ちを想像して、子どもの立場に立って考えることができないで、大人のレベルの考えを押し通すので、育児やしつけが粗大になります。
ある行動が起きた、その原因の条件を細かく考えることができないのです。
相手の気持ちを細かく考えることができないから、自分の分かるやり方を押し付けます。
例えば、ブロッコリーを食べる時、花(花蕾)の方と茎の方を、必ず分けて食べるという子どもがいます。
小さい房でも、花を先に食べて、茎を後から食べるのです。
分けて食べる理由は、ブロッコリーの食感が、花と茎では異なるからです。
花が柔らかく、茎がやや硬いと、私も思っています。
できれば私も、花だけ食べたいです。
まあ、私は大人だから、柔らかく茹でれば食感も同じだとか、もったいないとか、茎の方に食物繊維が多いとか、そういう言語があるので、両方とも食べます。
その子は、感覚過敏・味覚過敏を持っていると、私は想像します。
なので、その子がもし、シイタケやタケノコなど、ある特定の食感のものを嫌うのであれば、食べさせません。
「偏食を治す」なんて考えるのは、もってのほかです。
その子は、とても敏感な、舌や鼻を持っているのです。
成人になってから嫌いだったものを食べられたり、敏感な舌や鼻を活かして調理人になれたりするかもしれません。
子どものこだわりを消すのでなく、子どものこだわりを受け入れる・認めることが、安心できる親子関係・認めてもらえる愛着関係に、大事だと考えています。
自分にはない過敏さを、我が子が持っている、その想像力があれば、子どもの立場になれます。
その過敏さを想像できず、こだわりを受け入れることができなければ、子どもの感覚や好き嫌いの心を無視して、大人の考えでしつけるということが起きます。
発達障害のある保護者に、そういう粗大さが見られます。
「想像力の欠如」が障害となっています。
他者の立場に立つ、他者の心理を理解することが難しい、ということです。
子どもの発達障害に気づいたら、まずは、自分の発達障害の可能性も受け入れてみてください。
障害の有無・軽重とは 適応の困難さの度合い
障害とは、「適応が楽ではないという指標」だと考えています。
個人内での努力調整だけでは難しいので、環境からの特別な助けがいるし、合理的な配慮がいるのです。
障害がなくても、楽に生きるということは難しいので、障害があれば一層、社会適応して暮らしていくことは困難になります。
育児にも、働くことにも、経済にも、多くの支援が必要です。
それは恥ずかしいことでもなんでもない、人と人が助け合って、この社会を維持し作っていく、当たり前の受けるべき支援です。
競争だけの社会、強者だけの社会は、社会とは言いません。
人と人が助け合うから、社会の制度が成り立ちます。
支援される人の側だけでなく、支援する側も、支援の過程で、喜びや感動をもらいます。
そういう、相互補完、相互輔生、相互主客二役性の関係が、梅津八三のめざした社会です。
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