
29 茶色短毛猫の登場
我が家へ来る前のお母さんはどんな家猫だったのか、はたまたどんな野良猫だったのか皆目わからない。
灰色ほどではないにしてもお母さんも実は外が大好きな猫だった。
チワワを室内飼いしている友人に、灰色が猫白血病で死んだと伝えると「けんかや伝染病を防ぐには室内飼いがいいですよ」と薦めてくれた。
そう言われて私もお母さんの「完全室内飼い」をいったん考えては見たが、お母さんの朝夕の巡回の姿を思うと、その習性をお母さんから奪い去ることはまだ決断できなかった。

そのかわり予防注射は欠かさないようにしようと思った。
5年目の春、私はペットの出入り口に時間制限を設けた。
毎朝、お母さんの一巡りが終わったら、ペットの出入り口を閉める。
お母さんは仕方なく室内で留守番して日長一日過ごす。
私が帰ったらペットの出入り口を開けてやり、お母さんに夕方と夜の外出を許す。
時間制限を設けるということはお母さんの自由を制限することだった。
お母さんの外出は不自由の取り戻しのためか、時々長くなって、お母さんは夜更けになっても帰らないことが何度かあった。

しかしお母さんの順応力は割合高く、そういう制限時間付きの巡回がお母さんに定着していった。
初冬、とっても人懐こいが身体は汚い野良の茶色短毛猫が我が家の庭に現われるようになった。
茶色短毛猫は、秋頃には我が家の北のほうのお宅の駐車場で、車の下にもぐって暖を取っている姿を私も何度か見かけていた猫だった。
我が家のお母さんが朝夕しか庭先へ出なくなったから、よそ猫にとって我が家は格好の遊び場になったらしい。
「この家は猫の匂いはするが、猫は庭にいない。暖かいベランダのダンボールの上で日向ぼっこをしよう。」

茶色短毛猫はどうもそんな調子で我が家の庭へ現われた。
あるいは住み慣れた駐車場から何かの理由で追い出されたのか。
それとも縄張り争いに負けて我が家の庭へ引っ越して来たのか。
どうも病気らしい。
はじめ私は茶色短毛猫を追い払おうとしたが、この猫はやせ細り、右目がただれ、左目も目やにだらけで、この野良に冷たくするのは何だか気が引けた。

三角顔で手足が長く骨太の雄だったが、しっぽは貧弱でしっぽの毛は汚く固まっていた。
茶色短毛猫は人懐こくて、私が洗濯物を干しに軒下のベランダを歩くと、私の足に擦り寄って来ては餌をねだった。
短毛を餌で釣ってダンボールに入れ、動物病院に連れて行き、短毛の目を診てもらった。
獣医さんは短毛の病気に気づいたと思うのだが、私が「野良猫です」と告げると「自然の目やにの範囲ですね」と言って、そのときは何の処方もなく私たちは帰された。
短毛が冬の寒さを避けて車庫で寝泊りできるように、餌と猫ハウスと毛布とトイレを車庫に置いた。

短毛もかつてのお母さんと同様、すきあらば我が家の室内に入ろうとした。
短毛の眼病が日に日に悪化していくので、私はお母さんに短毛の眼病がうつらないように2匹の接触の回避に気を使った。
ところが用心していても、私がペットの出入り口を閉め忘れて出かけることがあった。
また、お母さんが朝の巡回から戻らなかったりして、ペットの出入り口を閉められずに私が出かけなければならないことが何回かあった。
私が帰宅すると、そういうときに限って短毛はキャットフラップから我が家に侵入していた。

意外に鋭い。
お母さんが押入れの最上段で昼寝することがあったので、我が家ではいつも50センチほど押入れの戸を開けておくことにしていた。
すると侵入した短毛は押入れの下段の布団にひっそりと、あるいは私のベッドの羽毛布団にちゃっかりと丸まって休息していた。
お母さんは短毛とけんかもせず短毛を追い出しもしない。
短毛から離れた別の部屋にいるか、自分の城を明け渡してお母さんが庭にいるのだった。
お母さんはなぜか短毛を排除しなかった。

一度も「ファーッ」と言わなかった。
お母さんはベランダで短毛にほんの短い時間だが鼻先を付ける。
私はお母さんに短毛の病気がうつらないかとたびたび気をもんだ。
敵意のない猫同士はお互いに鼻先を付けて挨拶するらしいのだ。
短毛はなんだかお母さんの亭主、灰色の父親のようにも思われた。
あるいは短毛とお母さんは年の離れた兄妹猫だったのはだろうか?
灰色と短毛は共にのんびりして人懐こく手足が長いところが少し似ていた。

短毛は硬いドライキャットフードを食べられなかった。
缶詰の柔らかいウェットキャットフードしか食べられなかった。
口の中に口内炎かおできができているのか、よく噛まないで首を左右に振りながら、一度に2缶くらいぱくついた。
排便は下痢便だったが、1か月もすると栄養が足りたのか、私が毛をとかしたからか、短毛の毛並みがよくなった。
しっぽは相変わらず汚れていて貧弱だった。

この先も短毛を飼うならシャンプーと去勢手術が必要である。
電話すると獣医さんは去勢手術を断わらなかった。
ただし、シャンプーは全身麻酔で行なうので短毛に「負担だからできない」と言われた。
獣医さんは短毛が相当年寄りであること、猫エイズと猫白血病であることを検査結果から静かに教えてくれた。
短毛は暴れる力もないのか、かつては家猫で可愛がられていたのか、動物病院に連れて行く車中でも、診察台の上でもとても大人しかった。

私も短毛の眼病が重大な病気から来ているらしいことはどこかで想像していた。
去勢手術は避妊手術に比べると入院は1泊2日で短かった。
コメント