最近BSプレミアムで『愛は静けさの中に』を観て、「普通ということ」について考えました。
この映画は、ろう者の女性が、自己肯定と自立に目覚めていくストーリーです。
映画は、1980年にトニー賞を受賞した、マーク・メドフ原作の舞台作品『ちいさき神の、作りし子ら』Children of a Lesser God をもとにしています。
ランダ・ヘインズ監督による、1986年のアメリカ映画です。
主人公サラ・ノーマン役のマーリー・マトリン21歳は、その迫真の演技で、1987年のアカデミー主演女優賞を最年少で獲得しました。
音声の言葉だけが普通のコミュニケーション法か
この映画を以前観た時は、ろう学校の教師リーズ(ウィリアム・ハート)と、ろう者の女性サラの、愛情物語だと思って観ていました。
ところが今回この映画を観て、単なる愛情物語でないことに気がつきました。
少数の聴覚障害児(者)に、多数派の「音声を使う者になれ」と、一方的にいうことは間違っている、そう訴えている映画だと思ったのです。
ろう学校で、読唇術を覚え、口話法を身につけることが、ろう者が生きていくための最善の教育だろうか?
聴こえて話せる多数派のあなた方が、手話を使い、指文字を覚えて、会話してもいいのではないか?
ろう者の我々だけが、なぜ、読唇術や口話法、発話の成功を、全員押し付けられねばならないのか?
手話と指文字では、なぜいけないのか?
なぜ、我々だけがあなた方に、口話法で近づかなければならないのか?
あなた方は、我々の手話の静かな世界を理解する努力をしないのか?
以上のような訴えを、主人公のサラ・ノーマンから感じたのです。
普通とは多数であるということだけではないか
サラ・ノーマンは、「小さい頃からずっと、怒りを持って生きてきた」と語ります。
その怒りを理解されないから、心を閉ざしてきたと。
少数の聞こえない話せない人たちだけが、多数の聞こえる話せる人の口話法に近づかねばならない世界。
一方的な教育への怒り、違和感、孤独が、サラを感情の激しい女性にしていました。
「ろう者」を、自閉症者、ダウン症者、知的発達症者と言い換えれば、全く同じことが言えます。
少数の障害児だけがなぜ、「普通」という教育に合わせなければならないのか。
もちろん、同調意識が強く、大勢と同じになりたい人は、読唇術や口話法の努力をしても良いと思います。
マイペースでこだわりが強く、多勢に同調するのが難しい人は、手話だけでも、個性的な探求学習でも、オンラインやフリースクールの教育でも、良いのではないか。
手話は私にとって英語と同じ第2外国語
皆さんは、手話ができますか?
私も、夏川りみさんの「涙そうそう」という歌で、手話を覚えようとしたことがあります。
手話ができたらいいなあと、今も思っています。
英語ができたらいいなあと、思うのと同じ気持ちでです。
これまで病院の療育に、2人、ろう学校の子どもさんが見えました。
私は手話ができず、手話を話せない自分に、コミュニケーション障害があると感じました。
1~2度の面談だったので、私に手話を覚える行動は起きませんでしたが、チャンスがあれば、手話を覚えたいと今も思っています。
ろう教育の手話と口話の変遷
日本のろう教育も、1920年代までは手話法が盛んでした。
1930年代には、学校教育での手話が禁止され、口話主義がきつく推し進められました。
1990年代にろう者の人たちから、手話言語の重要性が訴えられ、大きな運動が起きました。
2009年、ようやく文部科学省は、学習指導要領に手話を明記し、ろう学校でのコミュニケーション手段の一つとして、手話を認めた歴史があります。
口話法を習得するには、失聴の時期や残存聴力および構音運動機能などが関係しています。
サラのように、口話の発声が、全く難しい人もいるのです。
現在、口話は、発音・発語の指導となり、障害のレベルに合わせて行なわれています。
読唇ができず、音声発声も難しく、口話法が無理な人は、その人の望む手話、指文字、書き文字、音声発声装置などによる教育を、選べるといいと思います。
「普通」を相手の価値観から考える
ろう者の人に、手話通訳や、字幕放送、かなトークやUDトークなどの音声発生装置があるように、盲児にも、自閉症にも、ダウン症にも、知的発達症にも、サポーター(障害通訳者)がつくことで、インクルーシブなバリアフリーの学級で、どんな子どもも一緒に学べる時代が来ることを願っています。
映画「愛は静けさの中に」を観て、私がカタコトの英語を覚えるように、誰もがいくつかの手話を覚えて、ろう者の世界に入って行きたいです。
ろう者にとっては、手話言語が普通のことば。
相手の立場で「普通」を考えるとき、一方的だった視点の転換が起きる。
そんなことを考えさせてくれた映画でした。
猫ちゃんブログへのコメント